手さぐり鍼灸記5「顔面神経麻痺とペットの死」
そのご婦人は夏の真っ盛りに来院された。ロングヘァーにサングラスをかけて、季節はずれのマスクをしている。ちょっとミステリアスな雰囲気。暗い印象の人だなと思ったのを覚えている。マスクをはずすと顔の左半分が垂れ下がってしまっている。
一週間前の朝起きたら顔の左側がマヒした感じがした。病院ではウィルス性の顔面神経麻痺との診断。もとどおりになるかと尋ねたら、マヒが残ることもあると言われ怖くなってしまった。友人に鍼がいいと聞き、やってきたということだった。
切羽詰った様子で「鍼で治りますか?」「どれくらいで治りますか?」と聞いてこられる。
気持ちは分かるのだけれど、この質問は即答しにくい。なぜなら鍼の効果には個人差があるからだ。極端に言えばその場でかなりよくなる人もいるし、結果が出るまでに何ヶ月かかかる人もいる。これは顔面神経麻痺のみならず、多くの症状にいえることだと思う。
しかしながら目の前で追い詰められた患者さんに向かって「わからない」とは言えない。
その時、ふと、学生時代に浅川先生が授業で言っておられたことを思い出した。
鍼灸院に来る顔面神経麻痺の患者さんの多くが、まずは病院にかけこむのが普通である。
ステロイドなどを服薬するのだがなかなか治らない。そうこうしている間に時間が経ってしまう。不安になって周りに相談する。誰かに鍼がいいと聞いてやって来たときは、もう何ヶ月かが経っているのがほとんどである。その場合、治るまでにそれまでの2倍くらいの時間がかかってしまう。例えば発症から2ヶ月経っていたら治癒には4ヶ月かかるといった具合である。顔面神経麻痺に鍼が効くということをもっと世間の人が知っていてくれるといいのだが・・・。たしかこうだったと記憶する。
幸いにしてこの女性の場合、発症から一週間ほどしか時間が経っていない。
あくまでも一般論だとの前置きをして、多分2週間で結果が出ると思うという話をした。
取りあえず4・5回治療を受けてみるということになった。
まずは問診から始め、脈診・切診などを行なった。結果、強いストレスの症状が見て取れた。多分そのことが症状の要因になっているのではないかと考えそのことを伝えた。本人はまったく思い当たることがないとのことだった。
顔に鍼をして、同時にストレスの治療をした。治療後鏡を見て「少し頬が上がったみたいな感じがする」と安心したようで、こちらもそれで少しほっとする。
翌日来院された時は、えくぼが復活したと鍼の効果を納得したご様子。こうなれば希望が見えてくる。顔の治療といつものストレスの治療をした。
うつ伏せで背中に鍼をしている時、なんだか様子がおかしいのに気が付いた。「ウッ、ウッ」としゃくりあげるような声がする。どうかしましたかと問いかけると涙を流して,泣いているみたいだ。びっくりして理由を尋ねた。
2ヶ月ほど前それまでかわいがっていたペットのワンちゃんを亡くした。その時はとても悲しかったのだが、もう時間がたって自分では忘れたつもりだった。今、治療を受けていて、突然そのことが浮かんできて哀しくなった。とのことだった。
忘れたはずのペットの死が、ストレスの正体だったとは。多分そのせいで顔面神経マヒがおこったのだろう。人の心の中はまことにもって不可思議である。心のわだかまりが洗い流されることを「浄化」というが、まさに涙による心の「浄化」が起きたと思った。これで症状がグッと改善されるのではないかとの予感がした。
お盆の休みを挟んでの3回目の治療で、予想通り症状はほとんど解消した。最終的には5回の治療で完治した。
東洋医学は、カラダとココロは裏表、ひとつの者として考える。解かっていたつもりだったが、それを改めて見せ付けられた気がした。そうした意味でこの治療は私にとって大切な経験となった。
この女性、それから2・3ヶ月してすっかり明るい表情になって、お礼がてら治療に来られた。表情のせいもあるが、改めて見るとなかなかの美人だ。
仏教に「顔施」という言葉がある。人の笑顔はそれだけで他人を幸せにする施しであるとの意味かと思う。鍼治療をやっていて思うのだが、治療師の一番の喜びは、患者さんから笑顔で「おかげさまで・・・」とお礼を言われる瞬間だ。まして美人の「顔施」であればなおさらである。