もうひとつの履歴書5「気功の師、そして先達たち」
三代先生との出会いはかれこれ13年前のことになる。
当時、私は気功師のT先生との出会いをきっかけに急に手から気功が出るようになり、そのことに戸惑っていた。いろいろな文献を読み漁ったが、気功なるものの正体がいまひとつよく解からないでいた。そうこうしているときに、知人の紹介で銀座で気功を使った治療をされていた円能寺先生に話を聞かせていただくことになる。
いろいろな疑問をぶつける私に、それなら気功のことに僕よりもっと詳しい人がいるからと紹介していただいたのが三代公映先生だった。
三代先生は天台宗のお坊さんで、九州大分のお寺に生まれ、比叡山で仏教の修行をされた。
その後比叡山を下り、つくばの道場で気功の師について修行をされたと聞く。
私よりも10歳以上も若いのに、当時から多くのお弟子さんをかかえる気功の達人だ。
現在も阿佐ヶ谷と東銀座で気功の教室を、目黒で座禅の会を主宰されている。
さっそく生徒となり、東銀座教室で気功の稽古をすることになった。
気功の訓練は、臍下丹田の今の器を壊してひとまわり大きな器を作り上げるという作業の繰り返しだと先生はおっしゃる。気のキャパシティーをだんだんと大きくしていくということだ。
気功の稽古においては、丹田に気を落として、関節の力を抜いて、自然体でということをいつも強調される。
これが気功の極意だと思うが、いつまでたってもなかなか難しい。力を抜いて、自然体で。なるほど人生にも、治療の道にも、通じることである。
三代先生の気功についての知識、技術、あるいは感性には、私たちには量りがたいものがあるのだが、それにも増していつもニコニコと朗らかで屈託のない自然体の生き方が素晴らしく、本当にいつも感心させられている。
こんな先生をしたって、多くの生徒が集まってくることになる。
東銀座の教室では、稽古のあと近くの居酒屋でワイワイガヤガヤと飲むのが恒例となっている。メンバーは老若男女、多士済々。
その中に前に書いた円能寺先生、そして、小岩で治療院をされている三原先生がいらした。このお二人との出会いが私の治療家への道を決定的なものとする。
円能寺先生は、私と同じ長崎県出身だ。広告業界から治療の道へというのも共通している。広告では、私が先輩、治療家としては、彼が先輩ということになる。
飄々とした風貌に似合わずとても繊細で、気への感受性が人並みはずれて鋭い方である。
整体の稽古の折、カーテンの向こうから右足の気が床に抜けていないと、注意されたことがある。意識的に気を床に流すと、あっ、いま流れたといわれた。なぜそんなことが分かるのかと聞いても、感じるだけだという。不思議な感性だと思う。
私が鍼灸学校への入学を決めた時には、真っ先に野口晴哉先生の「治療の書」をかかえてお祝いに来ていただいた。
曰く、自分がやっている治療なぞは、ほっといても治るものを、少し早く治るようにしているだけ。
曰く、治療は、60兆の細胞と、60兆の細胞の、対話かもしれない。
シャイなお人柄から発せられるコトバにはいつも考えさせられることが多い。
三原先生も、中年になってから、サラリーマンをやめて、治療家になられたという。
氣光治療と称して、独特の印を使っての整体治療を、編み出しておられる。
物事にとらわれないおおらかなお人柄で、お酒の場でもすぐに治療が始まったりする。
年に何回かの勉強会では、そのノウ・ハウを惜しげもなく披露していただいている。
治療にあたっての真言に曰く「偉大なる宇宙エネルギーを私の身体をとおしてこの方にお与えください。感謝いたします」これをもってしても、先生の気に対しての姿勢を推し量ることができる。
私の鍼灸学校への入学の時には、この仕事はお金持ちにはなれないかもしれないが人に感謝されるすばらしい職業だと。そして治療にはなによりも自分に自信を持つことが大切だと話していただいた。この言葉も、思い出す度に私を力づけてくれている。
三代先生、円能寺先生、三原先生、気功の会で出会ったこのお三方はある意味異能の人々である。天才といっても差支えがないかもしれない。こうした人たちに囲まれて私は、時に気後れしたり、時に励まされたりしながら、気功の世界の奥深さをつくづくと感じさせられている。