もうひとつの履歴書3「妻の病気」
あれから15年が経とうとしている。ある日妻が胸にシコリのようなものがあると言い出した。
触ってみれば確かにそういうものがある。
近所の診療所の細胞診で、クラス4が出た。ほぼ乳がんが疑われるということらしい。
横浜のガンセンターに行くようにすすめられた。晴天の霹靂というが私たち夫婦にとってまさにそれだった。
がんセンターの診断も乳がんということだった。ベッドが空くのを待って翌週に入院、最悪の場合は、全摘手術をするという。ベテランの医師はこともなげに言った。
ちょっと待ってくれ。あんた、インフォームドコンセントという言葉を知らないのかい。少しきつい言い方をしてしまったが、こっちも必死である。その場で納得という訳にはいかない。今では当たり前になったセカンドオピニオンを取らせてくれという申し出をした。渋々と、3週間ばかりの猶予をもらったように記憶する。
妻は全摘手術はぜったいに嫌だという。その気持ちは痛いほどよく解かる。だが、命を救うことが最優先でもある。いろいろな伝を求めて、情報を集めた。
厚生省の友人が乳がん治療のガイドラインをファクスしてくれた。
大学病院で医者をしている従弟をはじめ、何人かの医者の友人にも意見を聞いた。
そして、これぞという病院を幾つか回った。基本的には手術を勧められた。
スポーツジムでの妻の知り合いに小脳疾患で難病といわれる人がいた。気功治療を受けているという。なんでも東京にガンを治すスゴ腕の気功師がいるのだという。
妻はこの治療を受けてみたいといいだした。溺れる者はワラをも・・・のたとえだ。
当時の私は気功でガンを治すといった話には懐疑的だったが、場合が場合だけに、妻のやりたいことはなんでもさせてやろうと思った。
病院回りと平行して何回か治療を受けることになった。こうして気功師のT先生と出会うことになる。
T先生の治療室は芝のアパートの一室にあった。医者との面談まで残された時間は10日あまり。それまでには必ず治すから毎日通ってくるようにといわれた。たいした自信である。治療費は1回2万円。たとえ気休めだとしても、この時の私たちにとって高い金額ではなかった。治療は服の上から手をかざすだけ。こんなことでがんが治るわけがないと思いつつも、奇跡を祈る他になかった。
がんセンターでの次の面談の日、もちろん気功の話はしなかったが、手術の前にもう一度、きちんとした病理検査をしてくれるよう強く主張した。厄介な患者と思ったか、通院手術でシコリを摘出し、病理検査をすることになった。
これは後から妻に聞いたことなのだが、手術の時取り出した腫瘍を見てその医師は、自分の長年の経験からひと目でガンだといえるといったという。
2週間後の病理検査の結果が出た。限りなくガンに近く見えたのだけど、ガンではないそうです。私も長年医者をやっているけれど、こんなことは初めてです。
医師からそう報告を受けた。万歳と叫びたい気分だ。T先生が神様のように思えた。
気功の力によって妻のがんが消えた。当初は懐疑的だった私も、目の前の事実を認めないわけにはいかない。世の中には、まだまだ、科学だけでは理解できないことがあるのだと思い知った。
この1年後妻の乳がんは再発をする。気功に関してもいろいろあったが、それは後述するとして、結局、2年目は手術を選択することになる。
いくつかの病院を調べて目黒のK病院に行きついた。今度は、医者にも恵まれた。
おかげさまで15年経った今も妻は元気にしている。
妻の発病からの1年で、私はいろいろな体験をすることになった。
病気とは何か、命とは何か、そして医療とは何か。考えさせられた。
医療の現場に多くの問題があることも知った。
詳しく書けなかったが、医師と患者との関係においても思うところが多くあった。
また、妻の病を前にして、自分がいかに無力であるかも、つくづく思い知らされた。
振り返ってみると、この、約1年間の出来事を契機に、
運命に背中を押されるように、鍼灸師への道を歩き出したような気がしてならない。